ほんもんぶつりゅうしゅう
2016年05月01日
樺太ご弘通の足跡を辿る(2)[東京・乗泉寺 宮崎日良師 記]
今回よりサハリン(旧樺太)での派遣教務による弘通拡充の足跡を、資料を基に探ってまいります。(文中ではサハリンを敢えて樺太と表記します。ご了承ください)

 歴史を振り返ってみれば、樺太は日露戦争後の明治38(1905)年9月より内地人を移住奨励し、昭和20(1945)年8月、終戦までの40年間、400,000人が滞在していました。その間に本州から、また北海道から樺太へわたったご信者が戦前からおられ、上行所伝の御題目を下種しながら弘通広宣された地であります。

 昭和20年8月15日は太平洋戦争の終戦記念日です。本土大空襲から沖縄戦が唯一の国内最後の地上戦と記されている資料が多い中、忘れられつつある敗戦後の戦いがあります。それは8月9日、日ソ中立条約を破ったソ連軍が11日から25日にかけて南樺太に侵攻。また15日のポツダム宣言受諾後も18日から21日にかけ、日本固有の領土・千島列島一番の北端、占守(シュムシュ)島へ侵攻。これが忘れられつつある千島列島、樺太の戦い(戦没者18,900名)です。当時、ソ連軍の侵攻を受け、樺太からは40,000人以上の日本人が引き揚げてきました。また、16歳以上の男性などシベリア抑留された人や惨殺された人も多数存在しました。現在も樺太や北方領土を巡っては、国際的問題があるために記述しづらい面もありますが、日本人として後世へ語り継いでいきたいものです。


2、落合親会場と大泊親会場の弘通

 樺太のご弘通は、前述のように戦前より本州、北海道から信徒が渡樺してご奉公されておりました。樺太は北端の地ですから、夏期は短く冬期が長い、真冬は零下30度近くなるのが普通で、その中での信行生活でした。1907年、樺太庁が設置され、南樺太は都道府県と同等の位置づけをされ、同時に政府が開拓のため支援策も打ち出し日本全国から多くの人々が移住し、農業、林業、漁業、鉱業などの産業が振興するなど、日本的社会文化を形成していったのです。特に林業関蓮や炭鉱関係では多くの雇用が創出され、国の支援もあり景気が良かったようです。その本島で昭和9年頃には、すでに三十数戸の信徒がご奉公されていたようです。

 この樺太へ、本格的に派遣教務として宮崎教幸(日照)師がご奉公されたのは同年8月、樺太落合町在住の東京第二函館支部所属開運組の増田文女姉よりの一通の教化奉安確認助行への依頼書から始まります。その後、青森、小樽、札幌、函館でのご奉公の他に渡樺して一時、増田宅(仮親会場)を拠点にしながらお助行のご奉公をされます。その頃、得度された樺太出身の菊池教文師が宮崎師と交代しご奉公することになります。ご弘通は伸展し落合駅近くに一戸建ての借家を落合親会場として、昭和11年2月に御本尊(第八世日歓上人御染筆)・御尊像をご安置されました。

 同年8月2日より6日にかけ、東京第二支部は乗泉寺田中日晨上人のご巡教により、仙台親会場開筵式、函館親会場創立十周年記念、小樽仮親会場御本尊・御尊像安置式、札幌親会場開筵式、そして樺太落合親会場ご弘通十周年記念と御本尊・御尊像の入仏式を奉修されます。しかし、これから益々の樺太弘通発展へと新たに発動しようとされた矢先の昭和13年、菊池教文師が若くしてご遷化。のち落合親会場は閉鎖されますが、再度、宮崎師が渡樺しご奉公することになります。  

 一方、本部直属の蔦谷憲了師が昭和8年頃、北海道小樽(当時信徒三十戸)に派遣され、随信組(仮親会場)を設立しますが、師は昭和10年10月にご遷化となります。その師の遺志を継承し村本信護(日長)師が暫くの間、小樽に滞在されますが、樺太に在住していた大阪玉江支部下の廣島遠種組・加藤初次氏の依頼により翌11年1月に渡樺し、加藤氏・高橋政一氏を中心としたご弘通が始まり、大泊仮親会場随信元組(信徒三十戸)が設立されます。

 11月8日には、第三世日随上人第十七回遠諱に併せて開筵式を挙行します。この時の信徒七十戸、大泊、豊原、落合、敷香に弘通が拡充しています。その後、仮親会場が手狭になり、旧大泊本町東2丁目から旧大泊本町大通南2丁目に移転するも、隣家の火災類焼にて本町北1丁目に借家をし、無事に御本尊がご安置されました。しかし昭和15年3月をもって、村本師は本部の指示により満州方面を弘通地として4月に樺太を後にし、後任に宮崎師がご奉公することとなります。このように東京第二函館支部落合親会場と本部直系の樺太大泊随信元組による弘通活動によって、南樺太内各地に妙法の大法が弘通進展されるのです。(つづく)