ほんもんぶつりゅうしゅう
2017年05月01日
海外弘通だより ブラジル編 私が得度に至るまでの経過② 日教寺所属 吉川妙養
私は毎日お給仕のために早く起きて、朝夕のお看経を欠かさなかった夫の信心ぶりをすごいとは思っていました。ですが私自身は仕事上の成功を追い求めることにあまりに忙しく、そして週末には少しくらいの息抜きをしてもいいはずだ、と考えていました。結局のところ、私は疲れていたのでしょう。
ところがある日、私にも何か信仰が必要な事態となりました。私の祖母が病気になったのです。実家の家族は別の街に住んでいますので、彼らのために私にできることはありませんでした。私には他に選択肢はありませんでした。私の家の御戒壇はとても大きく、それを無視することはできませんでした。
私は(御戒壇の前に)座って御題目をお唱えしました。私はとても悲しく、気持ちも弱っていましたが、精一杯真剣に、御宝前に向かいました。
そして私のご祈願は叶いました。そして、ご信心を持ったことで、私の心は強くなりました。
御題目が私の心を変えました。このときから、私は御法さまがお出ましくださったひとつひとつの出来事に、ふつうは気づかないことですが、気づきはじめました。
たとえば雨がちょうどいいタイミングで降ったり(やんだり)。予期せぬ出会いによって、心配ごとが解決したり。うまくものごとが進まなかったとき、それがかえっていい結果につながったり。愛する人との時間をより多く持てたり。予定に遅れたことが、事故を防ぐ結果になったり。
言葉にすると馬鹿げて聞こえるかもしれませんが、事実、すべてのことはご利益なのです。だけど、人々はこのことに気づいていない。
私は人々にこのことを知ってもらいたいと思います。私は全ての人に私たち全員を結ぶ目に見えないつながり(ライン)に気がつく機会をもってもらいたいのです。
私はファッション・デザインの専門家でした。初めて教務さん(尼僧?)になることを考えたころ、私は(服飾会社の)製造部門のマネージャーで、中国のいくつもの工場で製造工程をきちんと、効率よく稼働させるのが仕事でした。
この仕事のおかげで外国に行って、そこで暮らす機会も得ましたが、ファッション市場はこの消費社会の中でも移り変わりのはげしい業種の一つです。私の仕事は会社の収入を増やすために、それは製造に関わる人たちの生活に及ぼす結果は考えずに、製造コストを安くすることでした。ファッション業は冷酷でうわべだけの業種なのです。
私は最終的に他の人が仕事上の成功とみなすことを成し遂げましたが、会社から家に戻る車の中では涙を流したものでした。私はお寺では仏教を実践しますが、日々の生活の中ではそうではないのです。こんな生活にどんな価値があるでしょうか?
私はこのことを1年近く考えました。その間、夫と私は休暇で日本を訪れました。私たちは滞在している街で、毎日、朝参詣をするように心がけました。京都、大阪、東京、横浜、千葉で合計六つの佛立宗のお寺にお参りしました。
この経験が私の決心を大いに固くしました。私は次の教務養成会(ご信者さんが教務さんの生活を体験できる年に1度の催し)に参加することを決心し、5ヵ月後、カーニバルの期間に、リオデジャネイロの法昌寺で行われた養成会に参加しました。
それはちょうど高崎御導師がブラジル本門佛立宗の教区長に選任され、執務をはじめられたころでした。その前は、御導師はモジダスクルーゼス隆昌寺の御導師でした。このときまでは、私は御導師のことをあまりよく存じ上げませんでしたが、いつも言葉を超えて好感させていただくなにかがありました。
リオでの養成会でお話をさせていただいたときに、御導師は女性が教務としてご奉公することについて、お考えをお述べになりました。御導師は私の心にまっすぐにお話しになりました。サンパウロに戻って、私は教務さんになるという考えについて夫に話をしました。
教務さんにならせていただこうと強く思えたのは、次の質問を夫にしたときでした。「もし子どもを授かったらどうしたらいい?どうやって育てていけばいいかしら?」
彼は静かに答えました。「ユカ、もしいつの日か私たちに子どもを授かるだけの功徳がいただけたとして、そしてもし高崎御導師が君を弟子として受け入れてくださったなら、その子どもをどう育てるかは僕たちの決めることじゃない。それはお師匠さまが決めてくださることで、そのご指示をちゃんといただくのは、僕たち次第だよ」と。
そのとき、私は夫が私を応援してくれていることに気が付きました。彼もまた、心の準備ができていたのです。
お師匠さまのご返事はすぐにはいただけませんでした。御導師は上足の御導師方と相談をしなければならないとおっしゃり、私に待つようにおっしゃいました。本当のところ、私は心配でした。
                              (つづく)