ほんもんぶつりゅうしゅう
2016年12月01日
青年教務会樺太戦没者慰霊ご奉公渡航記3 新千歳空港から飛行機で豊原へ 第1弾の法要を真岡(まおか)で無事に奉修
樺太戦没者慰霊ご奉公渡航記、今回は前半の行程について申し上げます。

●前半の行程
 8月16日、終戦記念日の翌日、樺太本門佛立講と大変ご縁の深い、夕張・本照寺において夕刻に結団式を挙行いたしました。台風7号の影響により新千歳空港への発着が危ぶまれましたが、どしゃ降りの中、なんとかたどり着けたのはお計らいでした。
この本照寺を基地として予め買い揃えた備品を大量に配送、受け入れをいただいたので、これらを飛行機の持込制限である一人25キロギリギリまで各自の荷物に分配、最終の準備を整えました。
本照寺の宮崎正幸御導師より「台風が君たちを後押ししている」とお言葉を賜りました。この日頂戴しましたカツカレーは大変美味でした。
 翌17日、新千歳空港に集合、会議室にて樺太有縁の乗泉寺・宮崎日良師の講義を受けました。講義の最後に宮崎師は、ご自分で手書きされた樺太の地図を無言で数秒眺められ「かつて、70年前に父が必死にご弘通された地に今から行くと思うと…何とも言えない」と背を向け、絞り出すようにおっしゃいました。
講義を拝聴していた私たちは、宮崎師のお父上がその時に見た樺太の風景が流れ込んでくるような気がして「これから、遂に行くんだ!」と思いを馳せたのでした。
亡くなった方々に会いに行く。呼ばれているといった感覚とは別に、あの頃ご奉公された先輩に教えてもらいに行くという不思議な感覚です。講義の後、オーロラ航空にて豊原(ユジノサハリンスク)に無事、降り立ちました。
 現地空港にて新谷さんという方と合流いたしました。この方はお若いながらサハリンに住み、お仕事をされている日本人で、ロシア語も堪能。父方・母方の両祖母が樺太出身であり、先の戦争の影響を受けたとのことで、その供養になればと今回お仕事のお休みをとられてのご参加でした。
 樺太は、気温は東京の5月頃のようでしたが、湿度はかなり高く、ジメジメした雰囲気でした。その日はまおか真岡(ホルムスク)ホテルのレストランで一同、自己紹介。そのまま翌日のホテル付近での早朝の法要に備えて、宿泊となりました。
ところが早朝5時頃に停電。どうやら地域全体規模のようで、サハリンのエネルギー事情を垣間見た気がいたしました。
18日は8時15分から真岡にて法要です。真岡では昭和20(1945)年8月20日、間近に上陸した旧ソ連兵による暴行凌辱から逃れるため、真岡郵便局に勤務中の女性電話交換手10名が局内で青酸カリを飲んで自決を図り「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」と言葉を遺して9名が死亡した「真岡郵便電信局事件」という悲劇が起きました。
この真岡の慰霊碑は住宅街の真ん中にあり、お塔婆を埋めようにも土がなかったため断念。強風の中でしたが初回法要にして無事奉修となりました。
(つづく)