ほんもんぶつりゅうしゅう
2021年04月01日
第25世講有日開上人の第三回御忌 緊急事態宣言の中 細心の注意を払い
去る2月28日、西宮・廣宣寺において佛立第25世講有・山内日開上人の第三回御忌を奉修させていただきました。大津・佛立寺の小野山日住師ご唱導のもと、第11支庁管内の御導師方にご出座いただき、遺弟12師を合わせてお教務20師、ご遺族とご信者を合わせて140名で総合計160名のご参詣をいただきました。
小野山御導師は日開上人講有任期中に本山宥清寺執事長としてご奉公いただいた御導師で、日開上人も今日は久しぶりに一緒にお看経ができたとお喜びいただけたことだと思います。
お看経終了後は、清風寺での思い出、御任期中のエピソードを織り交ぜられながら、日開上人に教えていただいた御法門として「しぬる迄かくをこたらでつとめおかば また来ん時の便りならまし」の御教歌を頂戴されて、説いてくださり、本当に有難い心に沁みる御法門を聴聞させていただきました。
今回の第三回御忌法要は新型コロナ感染症の緊急事態宣言中ということで、入堂前の検温とアルコール消毒の徹底。全館法要中も窓開け換気をし、会場も3階本堂と2階納骨堂前ホール、1階多目的ホールと3つに分け、長椅子は2人掛けとしてソーシャルディスタンスの確保に努めました。また、自宅からのご参詣も出来るように、YouTubeでのライブ配信も合わせて行いました。
第三回御忌記念として、日開上人御晩年の御法門を集めて御法門集を作成。日開上人がお書きになったそのままを活字にして纏(まと)めさせていただきました。全国寺院に1冊ずつですが送らせていただきます。合掌


【奉修導師 小野山日住師の挨拶】

さて、日開猊下の御事につきましては、ご一同様の方がよくご存じのこととは存じますが、大阪の清風寺でご縁をいただいた頃のこと、本山宥清寺で執事長としてご奉公させていただいた折のことを、少しお話しさせていただきたいと存じます。

清風寺でお目にかかる
私が猊下と初めてお目にかかりましたのは、昭和47年6月に清風寺に入寺させていただくことになって、教講幹部会で私をご紹介くださった時でございました。それは猊下が清風寺の副執事長をされておられた頃のことで「富士額で、緒形拳みたいな、賢そうなお方だなア」と思ったのでありますが、まさしく猊下は博覧強記。
私が後にこちらで御会式の奉修導師をご奉公させていただいた時に、「私が昭和47年当時、御導師が清風寺の執事長をされていた頃…」と、ご挨拶させていただきましたら、法要が済んで御供養の席で、「その頃は、まだ執事長じゃなかったと思うな」とご指摘が入り「ああ、そうやったんや」と認識を改めたような事で、猊下は本当に記憶力の良いお方でございました。
私が入寺させていただいたのは、お祖師さまの700回御遠諱の前で、その後、若いお教務も増え賑やかでございましたが、その頃のことを思い出し、家内と振り返っては、一寸、失礼ではございますが、当時、流行っていたTV番組の「料理の鉄人」になぞらえて「山内御導師はお教務さんの『鉄人』のようなお方やな」と何度も密かに話し合っておりました。
猊下が謹厳実直のお方であった事は、誰もが認める所でございますが、吉井御導師(日之師)が「山内猊下は、新婚の頃は仁川(兵庫県宝塚市)に住んでおられたんやけど、もっと近くに住んでた私等より、ずっと早く清風寺についてはったんや。やっぱり違うわ」と、当時を振り返っては仰っていたことがありました。
また、猊下はどちらかというと寡黙なお方かと思いますが、寡黙な一言に深い含蓄が含まれていて、特に何かの大きな法要の折にご挨拶される、そのご挨拶は絶品でございました。
長年、大放光の編集長をなさり、多くの著書を執筆された清風寺の西野お化主(日渓上人)が、何かの法要の折、本堂裏に来られて、猊下がご挨拶をされているのを聞いておられて「ああ、山内師の挨拶は、やっぱり違うなア。頭の良い人の挨拶はやっぱり違う」と、しきりに感嘆されていたことがあり、今もって耳について離れない所でございます。

清風寺ご住職として
そして、やがて猊下は清風寺のご住職になられました。その頃、私ども若い者は6階の談話室でテレビを見てわいわいやっておりましたが、ある日、ふと気が付くと「あれっ、7階で、まだ御導師がお看経してはるワ」と思って何か気恥ずかしい思いが致しましたが、その当時、御導師には清風寺お住職としての、重圧が掛かっておられたものと思いますが、長い間、必ずお看経をいただいておられました。基本を外さず、どんな時でも、地道に事をやり抜くというのは、思っているより難しいことと存じます。

御講有としてのご奉公
また、これは猊下が御講有・本山お住職のご任期を満了され「謝恩会」が催された時に、私がご挨拶させていただいた時のものでございますが、その当時、次のようなご挨拶をさせていただきました。
猊下におかれましては、去る平成24年7月2日、遺嘱伝承の儀式を以て、その貴いみ位にお着き遊ばされました。その後、初めての大きなご奉公は、本山宥清寺の開導会でありましたが、その折、宥清寺のご信者から「ご奉公していたら、後ろから有難うございますと声がかかったんヨ。それで振り返ったら御講有やった。嬉しかったワア」という声を耳にしたのが「猊下のご奉公」の始まりでございました。
以来、4年間に亘るご奉公で、宗門行事としては、平成25年4月、3日間に及ぶ「門祖日隆聖人550回御遠諱記念大法要」を厳修され、続く3年間は「開導日扇聖人ご生誕200年」の「慶讃ご奉公」を発起して推進され、昨年からは「ご奉公の正念場」と檄を飛ばして、そのご奉公の大方をいち早く準備されました。
そして、そのご聖日を迎える今年には「三祖一徹のご信心」を踏まえ、開導聖人のご勧請を「大慈大悲大恩報謝」と言上申し上げるように諭達を発せられて、宗内外に開導聖人のご威徳を宣揚し、ご任期中の慶讃法要の準備を全て完了されました。
この間、海外へのご巡教は、韓国、ハワイ、イタリア、そして清風寺開筵式に引き続いてのブラジル巡教、さらに台湾、ロサンゼルスと5ヵ国6度に及び、その巡錫の旅程は、距離にして地球を1周して、なお余りあるものであったと存じます。
また、国内のご巡教は北は北海道から南は九州、全国35ヵ寺に及び、ご親教の15ヵ寺を加えて50ヵ寺を数え、その法要の慶弔それぞれに法要の趣旨を汲んでは、懇ろにお勤めになられ、殊に東北の被災寺院でのご巡教では、御自らの阪神淡路の大震災でご経験になったことと照らし合わせ、亡き犠牲者の方々に心のこもったご回向をいただくと共に、かの地の教講に深い慰めと大きな勇気をお与えいただいたと、聞き及んでおります。

3つの大事をお教え
また、宥清寺寺内ではその御法門の度毎に、次の3つの事を繰り返しお教えくださったと思っております。
1つには、無常を驚かして、今日の信行の大事なことをお教えくださいました。
2つには、今日の信行ご奉公に、過去遠々劫来の罪障を消滅し、未来に積功累徳の功徳が籠っている事、即ち「今が永遠に繋がっていること」をお教えくださいました。
3つには、その信行ご奉公は、自分1人のものであってはならず、他に勧める信心でなければ佛立宗の信心ではないと、佛立信心の3つの真髄をお教えくださいました。
そして、猊下の4年のご奉公を振り返って、宥清寺のご信者方が、それぞれ口々に言われます。「今の猊下は、ご巡教の時以外、1日も休むことなく朝参詣に、そして夕看経にご出仕くださり、お手本を示してくださった。外国のご巡教の次の日でも本堂に出ておられたので、びっくりした。自然に頭が下がるワ」と。
その言葉のとおり猊下は、ブラジルご巡教から帰山された翌日でも朝参詣にご出仕遊ばされ、夕看経にもそのお姿を現されて、怠りがちな教務を「事相」を以て「お折伏」してくださいました。
今、振り返ってみて、親の亡き後に後悔の臍(ほぞ)を噛む浅はかな子供にも似て、猊下のみ意に沿った十分なご奉公がさせていただけなかったことを、改めてお懺悔申しあげる次第でございます。
今月、猊下のご任期の終わる最後の月の宥清寺報に、婦人会長の谷山さんの記事が載っています。そこには「猊下、ご巡教の度ごとに、忙しい中をその都度、教養各会にもその土地のお土産のお菓子を買って来てくださいました。本当に有難うございました」と御礼の言葉が書かれてありました。
「ああッ、お土産のお菓子は教務会の我々や学生師だけではなかったんだナあ」と改めて思いましたが、思えば猊下が本山へ上がられて初めての開導会で声をかけていただき「振り返ったら御講有やった。嬉しかったわあ」と仰ったのは、この婦人会長の谷山さんでした。キット谷山さんは、お土産の甘いお菓子をいただきながら、他の方にも「御講有からお土産のお菓子をいただいたンヨ、嬉しいなア」「美味しいねえ。また明日もご奉公に、がんばろな」と感謝し、みんなを励まして来られたんだろうと思います。
そして、宥清寺での最後の教務会で、私が「猊下、これまでご巡教の度に、お土産のお菓子を頂戴して有難うございました」とお礼を申し上げましたら、猊下は「西宮のお土産はもうないで」と優しく仰いました。ご自坊の西宮のお土産が無いのは納得ですが「ああ、猊下のおそばに居させていただけるのも、もう最後なんだなあ」と思うと寂しい思いがジンワリこみ上げてきました。谷山さんも本山の皆さんも、この思いは同じであると存じます。
猊下、これからも法躰ご健勝にて、親しくご教導のお声をおかけくださいますようお願い申しあげます。これまでのご教導、本当に有難うございました。

奥様の内助のご奉公
また、猊下の奥様には、これまでの内助のご奉公、心より随喜申しあげます。寺内のご奉公はもとより、国内ご巡教の随伴に加えて、遠く海外へも、腰の悪いお体を押してのご奉公、人に言えぬご苦労がおありであられたことと拝察申しあげます。
また、そんな中でも何くれとなく、私どもにも深いお慈悲をおかけくださいました。心より厚く御礼申しあげると共に、今後とも猊下共々、お体をお厭(いと)いくださり、ご健勝にて内助のご奉公を成就されます事を祈念申しあげ、また折に付けて、格別のご芳情、ご厚誼を賜ることが出来ますよう、お願い申しあげ、御礼の言葉とさせていただきます。
このようにご挨拶させていただきました。

神々しい最期のお姿
今、振り返って思うに猊下のご一生は、あのご霊棺に入られた猊下のお姿にすべて顕れていたと思います。私は、そのお姿は美しいというより、「神々しい」と言った方が適切な気が致しておりましたが、猊下が本山へ上がられてからは特に、「アア、このお方は生まれ以って貴いお方なんだなあ」と何度も思いました。
これはお世辞やおべんちゃらではなく、自然にそんな思いが湧き上がって来たもので、今も、あのご霊棺にお入りになった猊下のお姿を思い出しては、私の思いは間違っていなかったと思っております。
これからも、猊下のお傍(そば)でご奉公させていただいた幸せを忘れず、内に秘めた自分の誇りとして、ご奉公に精進させていただきたいと存じております。
ご一同様におかれましても、それぞれに、今日また、猊下のお徳をお忍びし、良鷲師という「やる気満々」の「一寸、やんちゃかなあ」と思える新たなリーダーと共にご奉公を円成され、廣宣寺様ご一門が、いよいよ、隆昌発展されます事を祈念申しあげてご挨拶とさせていただきます。
若し、猊下に対してご不敬な事、また皆さま方にとって心穏やかならざる事をお話しした、といたしましたならば、ご信心に免じてお許しくださいますよう、お願い申しあげます。ありがとうございます。