ほんもんぶつりゅうしゅう
2019年09月01日
日隨上人百回御忌、先住日苗上人七回忌も  榮壽寺で新本堂開堂式勤まる 昭和35年以来58年ぶりに新法城を建立
去る6月23日、第2支庁・北大阪布教区・玉造榮壽寺(住職・横田光延師)では、開導会に併せて、支庁巡教・新本堂開堂式、并に第3世講有榮壽寺中興開基日随上人第百回御忌・榮壽寺第5世日苗上人第七回忌法要が、良風寺・誕生寺住職・西村日要師執行の下、厳粛に奉修された。
 榮壽寺は文政元年(1818)、大本山妙蓮寺の燈王院日傳上人によって開創された榮壽庵が始まりである。佛立嗣法第3世日隨上人(榮壽寺開基)によって佛立講に帰属されたことから、当宗でのご弘通が始まった。
 昭和2年11月、大坂長松組常在講師として横田実了師(榮壽寺第4世日延上人)が着任され、港区朝潮橋の永吉大吉宅に仮親会場が開設された。翌昭和3年6月、港区六条通に移転。佛立第5世講有日風上人(榮壽寺第2世)のご選名により、「長松教会」と改称した。
 昭和7年、ご弘通発展に伴い港区田中元町の角地に間口八間奥行十間の本堂を建立。御宝前を御遷座する。昭和9年、本支部制の施行で「長松支部」名が下附され、4月29日に開筵式が挙行された。しかし、昭和20年の空襲で、本堂・庫裏等全建物を焼失。所属信徒も罹災した。
 終戦後の昭和23年、日延上人は7戸の長松支部残存信徒と共に、現在地玉造に仮道場を建立。榮壽庵を以て寺号とし、長松支部を以て山号とせよとの野原日海上人(榮壽寺第3世)のご命により、「長松山榮壽寺」が誕生した。
 日延上人は昭和35年、少数の信徒を指導して、苦難の中より旧本堂を再建され、昭和51年、住職位を横田誠正師(榮壽寺第5世日苗上人)に継承されるまでご弘通に邁進された。
 法灯を継承された日苗上人は平成11年、今般の新本堂建立地となる隣接地を購入され、翌年、信徒会館を建立された。
 しかし、物資のない時代に心血を注いで建立された本堂も経年劣化は避けられず、また平成17年の阪神大震災の影響による老朽化も進み、近年は補修工事費用も年々高額となってきたため、平成29年に現住・光延師は、高祖ご降誕800年慶讃ご奉公・中興開基第3世講有日随上人第百回御忌・第5世日苗上人第七回忌法要報恩ご奉公として新本堂建立を発願し、同年10月より浄財勧募を開始。
翌30年6月に責任役員である誕生寺住職・西村日要師並びに清風寺住職・西村清良師のお計らいにより、清風寺寝屋川回向堂4階に仮本堂を設け、旧本堂からの御遷座式を執行。同年7月1日には実質的工事に着手し、8月19日に起工式を挙行した。
 明けて平成31年1月27日に新本堂上棟式を挙行し、同年3月10日には昭和35年の旧本堂御遷座以来、実に58年ぶりとなる新本堂内々陣への御宝前御遷座式を厳粛に執行させていただいた。
 開堂式の式典では北大阪布教区長・妙光寺住職鈴木昌光師他2名の祝辞を頂戴した。奉修御導師からは「器は出来上がったがここからが始まりで、これからのご弘通ご奉公が肝心」とのご慈折を賜り、教講一同ご信心の増進を決定させていただいた。
 当日は曇りのち雨の予報を覆す晴天のお計らいの中で、他寺院より43名の参詣があった。(清風寺広報部・岡田淳恩記)