ほんもんぶつりゅうしゅう
2021年05月01日
第25世講有日開上人第三回御忌 奉修導師 小野山日住師の御法門
御教歌 
しぬる迄 かくをこたらで つとめおかば また来ん時の 便りならまし

この御教歌は、「如説修行を楽しみて」と御題を置かれての御教歌で、臨終の夕べまで、仏祖のみ教えの通り、如説修行を楽しみに、身を労し、心を尽くして、信行ご奉公に励ませていただけば、来世は、今生よりも、もっと結構な果報を頂戴し、さらに充実したご奉公がさせていただけると、現当二世かけての悦びを御指南下された御教歌であります。

さて、この御教歌は、山内猊下が、そのご任期中の平成27年6月、宥清寺報にご執筆になった御法門の御教歌であります。
山内猊下は、そのご任期の当初から「自分は、いつくたばるやも知れん。このご奉公が終わるまで、無事に、このご奉公ができるように、それだけをご祈願してるんや」と仰っておられました。お目を悪くされていた猊下は、「私の罪障や」とも仰っていましたが、その分、そのお覚悟には、余程、真剣なものを秘めておられたものと拝されます。
特に、そのご任期の3年目の年には、例月、この寺報に「無常」「臨終」に関する御法門をご執筆になっていました。
ある日の本山での甲御講、猊下は「人間、いつかは死なねばならんけれども、死んだらそれで終わりではない。古いコートは、いつしか汚れて擦り切れて、買い替えねばならん時が来る。人間の一生も、時を経て年を取れば、新しい着物に取り換えねばならん時が、必ずやって来る」「けれども、お互い信者は死んだらそれで終いではない。また新しい着物に着替えて、新しい気持ちでご奉公させていただくんだ」「そのためにも、今日が大事だ。今日こそ未来に新しい着物を着て、未来に新しい自分を生きるはじめだ」と御法門されました。
そして、それなればこそ、今日をあだに(無駄に)暮さず、今日一日を参詣、聴聞、喜捨、人助けの菩薩行に励んで、功徳積みの一生にしなければならない。
信者にとって、何気ない今日の務めを、地道に続けていくことが未来につながっていくんだ。それが来世に、今生よりももっと結構な果報を頂戴し、さらに充実したご奉公がさせていただけるもとになるんだ、とお教えくださったのでありました。
猊下は、この西宮(自坊・廣宣寺)では自ら御宝前様の朝のお掃除、お給仕を怠らずされていて、そのお姿を拝見された若い女性が感激されて、信心増進を誓われたと聞いておりますが、猊下こそ努力を忘れぬお方、その手本を示して下さったお方であると申せます。
その猊下の最後に、ある方が「私より、あなたの方が若いんだから、先に死んじゃ駄目だよ」とおっしゃった。それに応えて猊下が「いや、もう私は十分ご奉公させていただいて来ました」と仰ったとお聞きしています。
そのご一生を振り返れば、大きなご奉公をされたことは勿論ですが、人に真似のできない程の地道なご奉公を、一日、一日と続けてこられて、最後には御講有のご奉公も無事に全うされ、任期を務めあげられてのご遷化。誰しも時間ができれば、生きていれば、余生は少しは楽もして、自分の楽しみも楽しんで、自由に暮らしたい。そう思うのがお互い凡夫であります。
しかし、猊下は自分のご奉公を最後まで勤め上げて、もう此処までというギリギリの所まで勤め上げられたに違いないと、拝察申しあげるのであります。
松尾芭蕉は、弟子の去来が辞世の句を求めたのに対して「昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、わが生涯の一句として辞世ならざるはなし」と言ったといいます。芭蕉の言葉には「人間はいつ死ぬかわからぬが、自分は、その際まで死を覚悟しつつ、一日一日を真剣に生き切った。自分にできることは全身全霊を込めてやって来た」という芭蕉の自負心が籠っていたに違いありません。
「わが人生に、悔いなし」。山内猊下の「いや、もう私は十分ご奉公させていただいて来ました」という一言には、人生の全ての重みが、その一言に籠っていたのではないか、一日一日の御奉公に真剣に取り組まれた猊下なればこその御言葉であり、お互いが手本とすべき心意気のこもったお言葉であったと拝されます。
猊下は、その御法門で、
〇無常を驚かして、今日の信行の大事なことをお教えくださいました。
〇今日の信行ご奉公に、過去遠々劫来の罪障を消滅し、未来に積功累徳の功徳が籠っている事、即ち「今が永遠に繋がっていること」をお教えくださいました。
〇佛立信心は、自分一人のものであってはならない事。他に勧める信心でなければ佛立宗の信心ではないということをお教えくださいました。
開導聖人は「しぬる迄 かくをこたらで つとめおかば また来ん時の 便りならまし」と御教歌遊ばされました。
「かく怠らで」―「このように怠らなければ、このように勤めておけば」
必ず、今度目にこの世に来た時には、今生よりももっと結構な果報を頂戴し、さらに充実したご奉公がさせていただけると、今日を務めることの悦びをお教えくださってあるのであります。
「便り」とは「頼みになるもの」、今日務めたことが来世で頼りになり、それが自分を助けてくれることになるということです。
お互いも一日一日の信行ご奉公、参詣、聴聞、喜捨、人助けの菩薩行に励んで、功徳積みの一生にし、来世の手回しにすることが大事。死ぬる際まで、信者にとって何気ない、今日の務めを大事に、地道に続けていくことを忘れるなと教えていただく御教歌であります。

御指南
「蟻、夏の間に冬籠りの粮(かて)をこしらふる。此経の行者、浄土参拝の粮を修せざれば、今度の一生も又いたづらになる也。もしこれを思はぬものなれば虫けらにも劣れるもの也。
粮とは御講、御講参り、常の口唱、人の教化也。是より外に粮とするものなし」(拝要抄 上・扇全12巻136頁)