日蓮聖人のお手紙を通して学ぶ佛立信者のご信心と人生

日蓮大士ご降誕800年記念シリーズ 日蓮聖人のお手紙を通して学ぶ佛立信者のご信心と人生 その6

福岡日雙
 四条金吾氏へのご消息 後段
 
 日蓮聖人が身延に入山された文永11年(1274)の秋、四条氏は主君の江馬氏(光時の子、親時)にたいし、日蓮聖人の教えに帰依し、御題目を唱えるよう勧めました。しかしこの進言は、親時(ちかとき)の聞き入れるところとはならず、このことが契機となって主従の間に亀裂が生じてしまいます。のみならず、以前から四条金吾氏を嫉視していた同僚たちの反感をも買うことになり、四条氏は窮地に陥ることになります。
 当時は同じ主君に仕える同僚同士であっても相互の仲間意識、連帯感は薄く、むしろ隙があれば同僚を蹴落として、すこしでも余分に主君の恩顧を得ようとする風潮が強かったようです。ですから江馬氏に仕える他の家臣たちも四条氏と主君との間に亀裂が生じたのを幸い、主君に四条氏のことをざん言し始めたり、機をうかがっては四条氏を亡き者にしようと企てる者も出てきました。
 こうした事態に巻き込まれたことにすっかり嫌気のさした四条氏は、主君、江馬の家臣であることを辞し、立ち去りたいとの意向を日蓮聖人に伝えました。この報を受けた聖人は早速、四条金吾氏に返書を出され、四条氏の心得違いをさとされました。これまでの主君のご恩を一時的な軋轢(あつれき)によって忘れ、主君の許をさり離れ去るような軽率な行動をとるべきではなく、なに事があっても今は辛抱して主君のもとにとどまるべきであると。
 その後も四条金吾氏をとりまく事態はさらに悪化し、主君から与えられていた2ヶ所の所領は没収となり、閉門謹慎の身となります。
 一方、四条金吾氏を陥れようとした人たちの身にも次々に思わしくない出来事が起り、主君、江馬光時も疫病に犯され、病臥の身になっていきます。親時はあらゆる治療をこころみましたが、一向に良くならず、ついに謹慎の身であった四条金吾氏を召して、治療を受けざるを得なくなりました。四条金吾氏は医術に心得のある人であったからです。重病に陥っていた主君も四条氏の献身的な施療によって健康を取りもどし、これが契機となって主君の機嫌も次第に和らいでいくことになります。
 そして、「法華経を信ずる人は冬の如し、冬は必ず春となる」との日蓮聖人のお言葉通り、四条金吾氏のもとにも再び春がめぐってくることになります。すなわち四条氏は再び出仕を許され召し上げられた2ヶ所の所領は3ヶ所になって戻され、与えられることになったのです。
 かくして、四条金吾氏は妻の日眼女(にちげんにょ)と共に生涯不動のご信心を貫き通し、晩年には有髪の出家として、日蓮聖人のお墓を守りつつ、71才でその生涯を終えたのでした。
 最後に日蓮聖人が四条金吾氏に与えられたご教示の二節を挙げさせていただきましょう。
 
「この経を聞き受くる人は多し。まことに聞き受くるごとく大難来れども、憶持不忘の人は希なるなり。受くるは易く持つは難し、さる間成仏は持つにあり、この経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり。」
(佛立宗版御妙判集3巻334頁)
 
「世間の留難来るとも、取りあい給うべからず。賢人聖人もこの事は脱れず。ただ女房と南無妙法蓮華経と唱え給え。苦をば苦と悟り楽をば楽と聞き、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱え居させ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力を致し給え。」
(佛立宗版御妙判集3巻241頁)