ほんもんぶつりゅうしゅう

2014-07-07 17:31

スリランカ団参記(第2回)床並登彰師

今回は、①「本当の豊かさとは何だろう」という最初の前置きについて。②仏教、なかでも大乗仏教っていいなあ、と私が感じた経緯について記したいと思います。

スリランカに到着して三日目くらい、首都コロンボから津波の大被害があったゴール市へ入ってから、あることに気付きました。それは、何を見ても前年行ったインドと比べてスリランカを見ている自分に気が付いたのです。街並みはインドと比べて清潔だ、人々の生活はインドより豊かそうだ、インドより物乞いやしつこい物売りが少ない等々、いつもインドと比べてスリランカを比較しているのです。思えば、インドへ行った時は、日本と比べてインドは不衛生で貧しいと感じたのですが、ではインドに行ってなければ、スリランカを日本と比べてどう思ったのか。スリランカは日本と比べて貧しいと思っただろうか。でもホントに貧しいだろうか。そういう相対的な、他との比較という目線だけで豊かさ(もちろん物質的な豊かさだけでなく)を、決め付けてしまって良いのだろうか。では本当の豊かさって何だろうという素朴な疑問、自問自答みたいなものが始まったのです。

 この疑問に対する私なりの一応の答えらしきものを得たのは、スリランカ開教十五周年の記念御講や記念法要を終えて、スリランカ滞在最終日のことでした。

その夜、コロンボ市内のレストランでスリランカのご信者さんたちとの交流会・食事会が催されました。会場に到着しますと、既にスリランカのご信者さん方は席に着かれていて、スリランカ教区長の福岡御導師から「日本の教務・ご信者は、自分たちだけで一つのテーブルに座るのではなくてバラバラになってスリランカのご信者の中に混ざりなさい」という指示がありました。私が座ったテーブルはスリランカ男性ばかり七人のテーブルでした(写真①)。メンバーは、G・ジャヤウィーラ氏、KW・ペレーラ氏、アジス・クマーラ氏、BJ・サマラトンガ氏、ジュード・ジョセフ氏、ジャガス・クマーラ氏、プシュパ・クマーラ氏。日本人は長野・本晨寺の井上御導師ご夫妻と小生の三名。スリランカの公用語は英語で小学校の時から英語教育をしているので、皆さんそこそこに英語を話せます。私はというと話すことに関しては全くダメです。しかし、懇親の場ですので片言の英語と身振り手振りを交えて何とかコミュニケーションを取ることに努めました。そうした話の途中で、隣に座っていた男性から「スリランカはどうだ?」と聞かれましたので「とっても気に入った。また来るよ」と答えたついでに、「日本は好きか?」と聞き返してみました。親日国ですので予想通り「好きだ」という返事。「じゃあ、一度日本を(visit)訪れてみたいか?」と訪ねますと、当然「イエス」という返事が返って来るものと思っていましたら、「ノー」という返事。あまりにも意外でもう一人にも聞きましたが、彼も日本は好きだが、わざわざ訪れたいとは思わない、と言います。やっぱりこれは貧しい国だからお金が無いのかなと思いながら、「何故ですか、理由は?」と尋ねてみました。彼らの返事は「私は今のこの国の生活に十分満足している。だからわざわざ日本を訪れてみる必要はない。それよりも私たちはスリランカが大好きだ。この国を愛している。「I  love  surilanka

なるほど。貧しい国だから、お金がが無いから日本に来たくても来れないのだと思った、私の心が貧しかった、という事です。

 その時は、とにかくもうコミュニケーションを取るのに必死でしたので、考える余裕なんてありませんでしたが、後から落ち着いて整理してみますと、本当の豊かさとは何だろうか、という問いに対する答えの一つがここにあるのではないか、と思います。とかく私たち日本人は、スリランカは日本よりは貧しいけれども、インドに比べれば豊かで清潔だ、という見方をします。もっと言えば、日常生活の中でも、あの人に比べれば私は頭が悪いとか、いいとか。あの人より器量がいいとか悪いとか。うちは貧乏だけど、あの人はお金持ちだ。その他、挙げれば切りがありませんが、何かに付けて私たちは他人と比較して自分は豊かだとか貧しいとかーーお金や物に限りませんーー言っています。でも、本当の豊かさというのはそういうところには無いのでしょう。むしろ、幸福感とか豊かさというのは、他人との比較ではなくてその人の中にある絶対的なものなのだと感じました。仏様や先師上人は、その事を「足ることを知れ」と教えてくださっていますし、特に仏教に出会った人、その中でも法華経の御題目にお出値いしたご信者は、我が身の内にあるその絶対的な果報を喜びなさいと、教えていらっしゃいます。

 さて、懇親会での彼らとの話の中で、「いつから信心をしているのか?」という話になりました。その時、彼らの中の一人が「私はBorn Buddhistだ。」と言いました。するとそのテーブルの七人ほぼ全員が「私もBorn Buddhistだ。」「私もだ」と言いました。「Born Buddhist」とは「生まれながらの仏教徒」という意味でしょう。スリランカは仏教徒が約七割を占める仏教国ですが小乗仏教国ですので、「Born Buddhist」とは「生まれながらの佛立信者」という意味ではありません。しかし、彼らは、まず仏教徒であるということに大きな誇りを持っていることを強く感じました。

 さらに、彼らの中の一人が束になったカードの一枚を見せてくれました(写真②)。表にローマ字で「南無妙法蓮華経」、裏に「HBS BUDDHIST CENTER」と書かれてコホハラの別院・親会場の住所と電話番号が書いてあります。これを知り合いや出会った人に配るそうです。いわゆる下種カードです。御題目のご信心やお寺・道場の存在を教える為のカードです。これは凄いことだと思います。なぜなら、小乗仏教とは簡単に言えば、自分自身が自分の為だけに修行して悟りを開く、自行のみ。そこには菩薩行とか人に奨めて助けるとかいうことは無いわけです。元々がそういう小乗仏教の信者「Born Buddhist」であることに誇りを持っている彼らが、下種カードを持って下種・結縁をしているのです。みんな持っていました。「俺も持ってるよ」、「俺もだ」、と見せてくれましたから。ついでに、シンハラ語の妙講一座を出して、唱えてみせてくれました。無始已来・如来滅後・日月偈・南無久遠。全部、日本語で唱えます。感動です。

 仏滅後二五〇〇年とか三〇〇〇年といった一般仏教的な視野で考えてみても、北伝仏教と南伝仏教が三〇〇〇年の時空を超えていまスリランカで邂逅したと言えば大袈裟でしょうか。そして、彼らは上行所伝の御題目にお出値いすることによって、自分一人成仏の小さな乗り物(小乗)から他の多くの人を乗せて仏道を進んで行ける大きな乗り物(大乗)へ乗り換えたのです。これは凄いことです。仏教っていいなあ、そして大乗仏教って素晴らしいなあと私が感じた所以です。

 前回紹介したように、ジャヤワルダナ氏が仏陀の言葉を引用した後に「日本とスリランカは長い間、仏教という共通文化で結びついている。」と演説して敗戦国日本の領土の分割統治案に反対を表明したサンフランシスコ講和会議。あれから今年で六十三年。広島・長崎への原爆投下や沖縄戦等々による多くの戦没者・戦災犠牲者にとって仏教では七十回忌にもあたる本年。この七十年の間に敗戦の痛手から立ち直り飛躍的な経済発展を成し遂げた日本。スリランカの人々にとっては、同じ仏教国としてそんな日本が憧れであり誇りでもあると聞きます。しかし、その経済的繁栄の中で暮らす私たち日本人はいま、彼らスリランカの人々のように「この国の生活に十分満足している。」「I  love  Japan」と胸を張って言えるでしょうか。そして、どれだけの日本人が、自分が仏教徒であることに誇りを感じているでしょうか。そう思う時に、ジャヤワルダナ氏の言葉が胸に刺さる思いがします。

 そういう意味では、今回のスリランカ団参は、海外のご信者との触れ合いを通じて佛立信心の素晴らしさを再確認するとともに、日本や日本人について再考させられる旅でもありました。

 さて、スリランカに日本から上行所伝の御題目の種が運ばれて十五年。現在のスリランカのご信者数は一万人を超えるそうです。十五年の間にどうやってこれだけの御弘通ができたのか。次回はスリランカ教区長・福岡日雙上人(写真③)からお聞きしたスリランカの現証布教についてご報告させていただきます。